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百田尚樹ワールド

影法師

今日は、百田尚樹という作家を紹介したい。先週、友達と呑みに行くのに、待ち合わせした書店で見つけた文庫本「影法師」が、またまた百田尚樹が書いたもの。講談社から発行されたばかりだ。これで、3冊めの百田尚樹ワールドに浸れると期待して読んだが、その期待通り一気に読んでしまった。もっと味わって読んだほうがいいのに、話の展開に飲み込まれてしまって、次々とページをめくってしまった。

百田尚樹ワールド。つまり涙腺を刺激し、意外な結末に「そうだったのかー!知らなかった」的ストーリーで読者をグイグイ引っ張っていく。今回の「影法師」は侍モノではあるが、ミステリーっぽく、時には目がうるうるとしてくる小説だ。他の2冊は、以前紹介した500ページを超える小説「永遠のゼロ」であり、書き下ろし長編小説「錨を上げよ」である。
「影法師」は、最下層に位置する下士武家の若武者が刎頚の友とともに武家階級の違いによる差別、嫡男でない悲哀に悩みながら、立身出生、武士の本分を遂げていく。だが、彼の無二の友が逆に没落していく、成功の影に失敗があるように。なぜ、そのようなことが起こるのか、「影法師」の秘密を是非読んでもらいたい。感動すること請け合いだ。
「永遠のゼロ」は私のブログでも以前紹介したが、百田尚樹が文壇にデビューした作品で、これまた大いに泣かせる。「50ページに一回は泣かせてくれるよ、涙腺を働かせたい人は読むべし」みたいな感じで紹介しまくった。

「錨を上げよ」は、大阪生まれのヤンキーの青春物語。思春期を迎えた少年がずる賢く、しぶとく世の中を生きていく。あらゆるものを斜めに見、親兄弟、女、友達、ヤクザ、学校、仕事との縁を断ち切り、放浪生活をおくる。そのあげく流れ流れて北海道の寂れた町にたどり着き、そこで大人になっていく。人生のいたるところで敗北をきしながらも、人の思いやりや親切を受け入れることができず、自分自身の生き方に苦悩し、そして模索し続ける。終わりなきドブさらいの人生である。この本を読みながら、ひょっとすると百田尚樹の自叙伝かなと思ったりもした。

百田尚樹は、主人公の過去をひとつひとつ紐解いていくなかで、主人公や周囲の登場人物の秘密を解き明かしていく。その過程で、人の情け、人の弱さ、逆に人の強さを切々と語る。くどいようだが、涙無しでは読めない世界なのだ。

The Long Goodbye

goodbye

私の書斎の机の上にある本立て、中学校の工作授業で作ったものだが、その本立てに長く積んでおいた「ロング・グッドバイ(The Long Goodbye)」を再び手にとって読んでいる。レイモンド・チャンドラー著 村上春樹訳で2007年に購入したものだ。何回か読み始めては途中で断念した代物。500ページを越える探偵小説だ。改めて読み始めると、何か私を夢中にさせる雰囲気がこの本にはある。
この本の主人公・フィリップ・マーロウは、ハードボイルドな私立探偵。感傷や恐怖に流されず、精神的肉体的に強靭で妥協しない性格を持つ。マーロウが関係する事件を通じて、都会の孤独、別れと死、愛情と友情を感じさせてくれる。

このマーロウのお話にも出てくるが、人の付き合いには別れが必ずついてくるもの。親子の付き合いにしてもそうだし、人と会社、人と社会、男と男、男と女もそうだ。辞めようとしてる友達を引き止めたこともある。いろいろな事情で去っていこうとしている友達もいる。また、今のデジタル世界の中でばったり再会したが、流星のごとく気が付いたら、私の前から消えていた大昔の友達もいる。我々は昔のような姿ではなく、長い年月の間に変わってしまっていた。その落差で不安定な再会になった。それは見えていたのだ。この再会の終焉に相応しいタイトルがこの「ロング・グッドバイ」なのかもしれない。でも、再会には華々しいものは何ひとつなかったのだが。また、デジタル世界を通じてのみ、つながりを持つ友達もいる。それは、Long Goodbye ではなくて、Long Relationshipと言ってくれている。まだまだつながっているよ、淡いけど。
しかし、友達を失ったり、友達が去ってしまったりするのは悲しいことだ。どうしたらいいのだろうか、と考える。一期一会しかないのかもしれない。人生はそう長くはない。悔いがないように。

タンホイザーから聖書へ

聖書

歌劇「タンホイザー」の話の期限が来たので、何か結論めいたものを書こうと思うが、いろいろネットで調べたが、19世紀中ごろになぜこのような歌劇を書いたのかどうしても分からなかった。大概、芸術家の作品には時代背景があり、その影を自分の作品に忍び込ませるのだが。物事がいつもそんなふうにロジックで動いていないのは理解できるので、これ以上時代背景を追究するのは止めた。その代わり、歌劇「タンホイザー」の中で官能的な愛についてお話しようと思う。

官能的な愛というは肉体愛であって、もともとローマカトリックが許していない考え方。多神教であったローマ時代、もっと遡ればギリシャ時代に肉体美が賞賛され、愛を司る神エロスが公然と存在した。しかし、キリスト教が栄えるようになって、この考え方が悪徳に変わる。私の勝手解釈では、カトリックでは男女の交わりは結婚した男女(夫婦愛)に限ったものであり、また子孫を残すためであって、それ以外は邪道であるとした(こんなストレートな解釈は世間の批判を浴びかもしれないが)。従って、夫婦愛のように精神的な愛はより重く扱い、肉体の愛、いわば自由愛は神に背くものされた。その典型がバース(Birth)コントロールである。結婚した男女の愛の証が子孫につながるのに、それを制御するとは何事だと言うのである。

その背景には聖書の創世記38、マシュー、ルークに出ている。また、“The Story of Tamar”というサイトに掲載されているので、関心のある方は読んでみてください。私の友達が偶然Tamarという名前のユダヤ人で、このストーリーを紹介してもらった。

簡単にその内容を紹介すると、Jacob(ヤコブ)は12人の息子を持っていた。ヤコブは、そのうちJudah(ユダ)が一番のリーダーになるだろと予言した。ユダが結婚して3人の息子をもうけ、彼らが大きくなると、まず一番目の息子Er(エル)に“Tamar”という女性を嫁にもらった。しかし、Erは早々と死に、残された未亡人Tamarは2番目の息子Onan(オナン)と結婚することになった。これは、長男が早死にした場合はその未亡人を次男が嫁にもらうアラブ地域の風習に従ったまでだ。しかし、オナンは未亡人Tamarが宿すことになる子供が兄Erの子供であるという考え方に執着するあまり、Tamarとの交わりにおいて避妊をしてしまう。この行為によって、オナンは神から罰を受けて死んでしまう。
またもや未亡人になったTamarは三男シェラに嫁ぐことになるが、ユダは「シェラは幼すぎる。その時期になったら結婚させる」とTamarに約束し、彼女の実家に帰した。しかし月日は経つのに、一向にユダはシェラとの結婚のことを言ってこない。そこで、Tamarは、約束を違えたユダが出かけた町で娼婦に変装してユダを待ち伏せする。そして、ユダは何も気づかずにTamarに声を掛け“春”を買い、その見返りにユダの印鑑とブレスレットを渡す。そのあと、“娼婦”はこつ然と姿を消す。

何ヶ月か経って、ユダの許にTamarが妊娠したとの話が伝わり、ユダの前にTamarが引き出される。そこで、Tamarが詰問されると、交わった男はこのような品をくれたと、ユダが渡した印鑑とブレスレットを見せる。これが約束を破った男ユダに対するTamarのリベンジであった。そうして、Tamarはユダの双子の男の子(Pharez and Zarah)を生んだ。
その男の子Pharezがその息子Hezronにユダの血を繋ぎ、またさらにHezronがその息子Ramに血を繋いでいく。そして、何代目かに宗教上重要な息子たちダビデ、ソロモン、ジョゼフが誕生する。そして、最後にジョゼフがマリアと結婚して、キリストが生まれる。しかも、最後には交わりなしで妊娠するのである。

このようなストーリーが聖書に綿々と書かれ、Tamarとオナンの交わり行為に断が下され、カトリックが避妊を否定する根拠としている。また、Onanの行為がOnanism(自我行為)と転化しているのも興味深い。「タンホイザー」から聖書の話に脱線してしまったが、たまにはお許し願いたい。

肩の凝らない本読み

恭二郎

今朝、起きてみたら外は真っ白。雪が10センチも積もっている。室温は6度。外はかなり低そうだ。降り積もった雪が凍結しているのか、バリバリという音を立てて車が通っている。昨晩、水道の蛇口を少し開いておいたが、無事に水がぽたぽたと出ていた。こんな中、アレルギー性鼻炎のお医者さんに車で出かけた。アイスバーンになった下り坂をそろそろと走った。ブレーキを少し踏んだだけで、車体の下からガガガーという音がした。タイヤが凍結した路面で滑っているのだ。
大通りに出ると、大雪の混乱も無く、スムーズに流れている。信号を渡り、上り坂に差し掛かると、車が立ち往生していた。一旦停止したら、スタットレスタイヤを装着していない車はスタートできない。可哀相だが、ゆっくり追い抜いて医者に急いだ。先生のところに着くと、雪の朝なのにもう近所のおばあさんやおじいさんたちが待合室にいた。相当時間がかかりそうだった。

そこで、私はダウンジャケットのポケットから本を取り出した。祐光正著の「灘酒はひとのためならず」。家に帰るバスの時間待ちに入った本屋さんで、洒落っ気がある本の題名に吸い寄せられて思わず手にとって立ち読みし始めた。そのまま読み続ければ節約できるものを、バスの出発時間が迫ってきたので、隣にある時代物と一緒に買った。
待合室の椅子に座って読みかけのページを開く。私の癖で、読んだところのページの端を少し折っておく。こうしていると、すぐに続きを開けるし、しおりがなくても平気だ。
お話は至って娯楽調。二百石取り与力の次男坊の若侍・三枝恭二郎が突然南町奉行に呼び出され、奉行直々の隠密として任命される。隠密たるもの市井の中に埋もれて生活し、諜報部員として、また秘密工作員としてのお役目だ。しかし、この次男坊、清廉潔白で“武士たる者こうあるべし”という堅物。剣術も北辰一刀流免許皆伝。奉行に「まずは、遊び人になれ」と言われても、下戸で真面目で、剣質も正統派の恭二郎は、“市井に埋もれる”すべを知らない。そこで“本当の隠密”に変身するために世の中の裏側をみて回る修行をすることになる。ストーリーの場面は、「江戸の堅気は長崎で」、「いざ鎌倉河岸」、「灘酒はひとのためならず」と変わっていくが、どれもこれも諺をモジッたものだ。

この恭二郎シリーズ本は始まったばかりだという。面白いキャラの主人公 恭二郎がこれからどんな活躍をするか楽しみだ。

シンデレラの真相

お店

パリでフランスの弁護士と会う。ついでにランチを一緒にしようということになり、事務所の近くのフランス料理の店に行った。そこは、品のいいおばさんとおじさんが経営している家庭料理のお店(写真)だった。私は、昔食べたことのある「コートダニヨン(ラムチョップのグリル)」を注文し、弁護士は魚をブイヨンベースのスープで煮込んだ地中海鍋を注文した。美味しく戴きながら、結構いろいろお話をした。
彼は、小さいときに4年間東京に住んでいたという。父親は外交官で、東京のフランス学校に通っていた。そのときは日本語が良く出来て、逆にフランス語が大変だったらしい。小さいときの語学はすぐにリセットされるようで、フランスに帰国して、日本語をすぐに忘れてしまった。大学時代にもう一度日本語を勉強したそうだが、難しすぎて身につかなかったという。しかし、片言は覚えているようで、のど飴を渡すと、「のど・・・?」と発音できた。

そんな彼に、私は「確かに日本語って、難しいよ。何年習っていても、漢字は覚えられない」と、漢字を知らないことを当たり前のごとく言った。
「また、日本語ってね、同音異義語が結構ある」
「例えばね、橋、端、箸とかね、雲、蜘蛛とか」
「何が違うの?」
「イントネーションが違う。しかし、地方によってはそれも違う。前後の言葉で判断する場合もある」
「ふーん」
「フランス語では、そんなことはないのかな?」
しばらく考えていた彼は、突然シンデレラの話をし始めた。
「いや、シンデレラのお話に同音異義語で後世にまで影響を及ぼした事例があるんです」と言いながら、彼が信じる事の真相を話し始めた。それは、私にとって初耳だった。

フランス版シンデレラ物語は、17世紀の後半?にフランスの詩人シャルル・ペローが民話をベースに書いたもの。そのペローがシンデレラと王子とが結ばれる絆となる“ガラスできた靴”を書き表わしたが、もともとの民話は「白か灰色の皮できた靴(pantoufle=スリッパ)」あって、皮(vair)のスペルをガラス(verre)と書き間違いをしてしまい、それ以降ガラスの靴が有名になったとか。ペローが同音異義語のvairとverreと聞き違えたのだとバルザックは指摘しているという。しかし、間違ってか意図的にかは不明だが、ガラスの靴は童話にぴったりの表現になっているのは間違いない。別の学術研究では、民話は“ガラスの靴”であったとも言われている。ちなみに、この種の民話、つまり、王様や王子が靴の持ち主を探して結婚するお話はいろいろな国々の童話になっていて、国によっては金や銀の靴であったり、平凡な木の靴であったりする。

“ガラスの靴”の貢献者ペローはもともと弁護士で何回か法廷にたっただけとか。言葉を扱う商売でも夢のあるほうがお気に召したのかもしれない。
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