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叔母・君子

君子さん

大正6年生まれ。御年98歳、独身。名前は君子。私の叔母だ。元気は元気であるが、耳が遠く、右目は見えず、左目は一部しか見えない。未だに背筋はピンと真っ直ぐで、毎朝、パナソニックの"ジョウバ"に乗って、足腰を鍛えている。歳が歳だし、子供もいないし、将来を考えて、何年か前に介護付きの老人ホームに入ってもらった。

昨日が誕生日で、1日遅れだったがホームを訪ねた。君子さんは車椅子に座って、私を迎えた。不幸なことに、昨晩、ベッドの横で転倒して、右目と右脇腹を打撲し、目の周りは殴られたように赤く腫れて、脇腹に湿布をしていた。こめかみも酷くぶつけたみたいで裂傷を負い、2、3針ほど縫っていた。
君子さんに聞いてみると、転倒して動けなくなって、長い時間かかって、ナースコールのボタンの所まで這っていき押したそうだ。大変だったに違いない。それにしても、いい血色しているし、お土産に持って行ったお好み焼きを1/3ほどペロリと食べたから、転倒のショックはどこかに行ってしまったのだろう。

しばらくすると、君子さんは私に向かって、いつものように昔の話をし始めた。少し認知症があるのか、あるいは、歳相応の物忘れか、間近にあった事をすぐに忘れるし、同じ事を幾度となく聞く。しかし、昔の話は鮮明にできる。同じ話を何回も聞いているが、大人しく相槌を打ちながら聞いてあげるのが君子さんには必要なのだ。
その話は、君子さんが生まれ育った大阪船場から始まる。小さい時は"いとさん"と呼ばれ、高麗橋の三越から番頭が丁稚を連れて反物を持ってきたそうな。小学校を卒業し、勉強が好きで、女学校に行きたかったらしいが、親が許してくれず、代わりに商業学校に行ったという。学校で会得した算盤と習字で、旧財閥のひとつであるM物産に事務員として入社。昔は女性がオフィスで働くのは珍しかったらしい。君子さんが18歳の時のことである。物産で中国との取引部門に配属され、帳簿付けや中国とのやり取りを担当していた。算盤技能がトップで、手紙を書かせたら、素晴らしい字を書いたものだから、支店長の目にとまったのか、24歳の時に支店長が家族共々中国・青島に赴任することになり、支店長の秘書として一緒に青島に派遣されることになった。1941年のことであるが、当時は女性が海外派遣されるのは珍しいことであった。君子さんは支店長の家に住み込み、娘みたいに大事に扱われたという。支店では秘書業務と帳簿の点検、電報業務だったとか。青島駐在は1945年、日本の敗戦の状況下で終了した。支店長から今なら安全に帰国できると諭され、支店長の家族とともに九州の港に着いたという。どこの港に着いたのは覚えていなかった。引っ越し荷物は物産の大阪倉庫に預かってもらった。というのも、船場の両親の家は大阪大空襲で焼失してしまっていたから、引っ越し荷物どころか、身一つ、どこで生活するかわからなかったらしい。

戦後、M物産に戻り55歳の定年まで勤め上げた。この間、独身を通した君子さん曰く、全財産を失った両親は君子さんの給料を当てにしていて、結婚させようとはしなかったと。なんという境遇であろうか。次回に続く……………
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