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斑鳩・法隆寺から歩くーその2

斑鳩01

再び、法隆寺の中門の前を通り、中宮寺の方向に歩く。もうすぐ11時、予定よりかなり遅れていた。石畳を東に歩いていくと、幅1メートルほどの疎水があった。その脇に斑鳩神社の矢印看板がある。それを見た中村先生が“いかるが”の意味をメンバーに説明している。さすがは歴史研究者だ。その説では“斑鳩”は当て字であるという。我々は、その当て字の看板の角を曲がり、斑鳩神社に向かう。片側は石積の上に築かれた高い土塀が続き、反対側は疎水。幅2メートルほどの道が真っ直ぐ北に伸びる。向うのほうから車が向かってくる。こんな狭い道を走ってくるから、我々は疎水の反対側や土塀の石積に駆け上がって、難を逃れた。新納さんが「なんて車だ!こんなところを通るなんて」と、例によって憤慨している。ハイキング道を走る車を敵視しているのである。

斑鳩011
斑鳩015

斑鳩神社の角をみんなが曲がるのを見届けて、先頭役の私は先を急ぐ。地元の人となんとなく言葉を交わし、「これから斑鳩神社に行くんです」と言うと、「私たちの守り神に行くのですね!滅多に観光する方々は行きませんがね」と嬉しそうに返事してくれた。法隆寺が中核をなす旧法隆寺村の鬼門の方角、つまり、法隆寺から北東のほうに守り神を祀る。それが斑鳩神社である。
当の神社の設えは近代に整備されたようで、新しそうな花崗岩の石段が積み上げられていた。それを登ると、古びた社が寂しく鎮座していた。

斑鳩016

斑鳩神社をあとに、もと来た道を戻る格好で、聖徳太子ゆかりの中宮寺に向かった。5本線(皇室関係を示す)の入った土塀が長く続き、そのちょうど真ん中辺りに立派な門があった。そこをくぐると、細かい砂利を敷き詰めた中宮寺の境内に入る。拝観する時間がないので、法隆寺東院と鐘楼の前で記念撮影して、そそくさと予定のルートに戻った。

中宮寺を発し、やっとJR関西本線の踏切を渡り、ハイキングらしくなってきた。ここまでで約6キロ、もう12時である。初めからわかっていたが、ラーメン屋には行けそうにもない。結崎駅近くのうどん屋は6キロ先だ。途中で引っかからなければ、1時には到着するだろう。メンバーのスピードが上がってきて、調子よく1キロは歩いた。そこで我々は飽波神社(あくなみ)に出くわした。もちろん、ハイキングルートで“寄って見るべし”の神社なのだから、時間は掛かるが立ち寄って、早くうどん屋に着けるように神頼みすることも忘れない。
この神社の元は聖徳太子の宮であり、法隆寺と飛鳥宮の途中の休憩所であったとも言われ、“太子腰掛け石”がこの神社の境内にある。その石を“発見”したメンバーは代わる代わる座り、聖徳太子に思いを馳せる。女聖徳太子、中国聖徳太子・・・・。中村先生は博学だし、ひょっとしたら聖徳太子に一番近いかも。聖徳太子は10人の言うことを同時に聞き理解して的確に返答したという言い伝えがあるが、私なんか女房の言うことも上の空で聞き流しているから、三年間ぐらいはこの腰掛け石に座って修行をすべきなのかもしれない。

斑鳩018

飽波神社の案内板によると、この神社のご利益は雨乞いらしい。飽波という地名は“湿地”から由来し、大昔はこの辺りは湿地帯であったらしい。これでいて、雨乞いというのもなんか矛盾しているように思う。しかし、雨乞いは日照りによる飢饉の救い。飢饉の歴史を紐解くと、戦国時代の後、江戸時代に平和が訪れて、人口が爆発的に増加したこと、人口が都市に集中したことが食料需要を一気に増大させ、結果的に少しの天候不順でも大飢饉を招いたといわれる。江戸時代に雨乞い躍りがこの神社に奉納されたと案内板に記述されているのは偶然ではないのだろう。雨の溜まりやすい湿地帯に位置し、よく聞いてくれる聖徳太子ゆかりの神社に祀る神が聖徳太子のように雨乞いも聞いてくれると、民衆が信じても不思議ではないのである。
そんなことを考えながら、先頭でハイキンググループを引っ張った。飽波神社を出発したのが12時15分。あと4.7キロでうどん屋だ。

斑鳩012
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