スポンサーサイト

上記の広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。
新しい記事を書く事で広告が消せます。

やっと卒業!

プロ道

やっとプロになったよ!こんなメッセージをLINEで受け取った。娘からだった。東京に歌の勉強に行って7年。音楽をやる、オペラ歌手になると決意してから、17年経過していた。調布・仙川にある音楽大学に4年行き、その後、研究科に3年。オペラ研修所のマスターコースでも研鑽を積んでいた。これまでの努力や頑張りは親の私でも感心するほどだ。親の経済的なサポートなんか、娘の根性に比べたら大したことはないと思えてくる。京都で演奏するたびに、娘のファンが多くなっていくから、歌の上手さ以上に人を惹きつける雰囲気もあるのかと思う。誰に似たの?っと、知り合いの音楽通に訊かれるが、突然変異かなぁと答えるのみ。親バカだが、次代を担うソプラノ歌手になってほしいものである。

ということで、この4月、オペラ研修所を運営するオペラ団体に所属することになる。こんなプロの道に繋がったのも、東芸に2回チャレンジし2回ともダメ、3回目にチャレンジするときに、師事している先生から今の音楽大学を受けてみたらと勧められたことに始まる。これが娘にとって重要なターニングポイントになった。中学校、高校、浪人、大学時代を通して何度もコンクールに挑戦し、何回も悔しい思いもした。その度に、次頑張るよ〜とメッセージをよこしてくる娘。女房と二人して、何度も演奏を追っかけしたものである。
次の段階に移った娘だが、オペラの舞台に立つにはまだまだ修業が必要だろうし、オーディションを切り抜けて、"役"を勝ち取ることも必要だろう。また、そろそろ結婚の時期にも来ているし(私は気にしていないが、私のお袋は気にしてる)、一生歌い続ける決心とどう共存していくか、考え続けることになると思う。一方、親としては、文化芸術の都・東京で娘の生活拠点をどう支援していくか、向こう2年ほどで結論を出さないといけないだろう。私の退職も見据えて、何か絵を描くつもりだ。17年前に娘に貢ぐことを決心した。このことを思い出して、親ももうイッチョ〜頑張るか〜と思い始めている今日この頃である。
スポンサーサイト

叔母・君子 その3

娘と叔母

『私はね、年寄は嫌いなの‼️ だって、いつも病気の事しか話さないから』

叔母・君子さんの口癖はいつもこうだった。介護付き老人ホームに入る前、大阪守口の高齢者マンションに住んでいた時、まだちゃんと目が見えていて独りで外出したりし、93歳にしては活発だった。たまに君子さんに会いに行くと、和服姿でお茶会に出掛けた話とか、日赤の表彰式に御呼ばれしたとか話してくれた。君子さんのルーティーンは一階の食堂で朝ご飯、その後、マンションの共用場所にあるジョーバに乗る。その後、シャワーを浴びて、部屋のカウチでゆっくりする。一階の受付の子たちが暇になる頃を見計らって、受付カウンター越しに彼女たちとおしゃべりする。シックな帯に大島を着て出掛ける前に、彼女たちにファッションショーをする。こんな風にして若い人たちと気持ちよく会話すれば、気が若くなるのもわかる。

そんな叔母に会いに行った。ところが、いつもの元気がなく、「目がよく見えないの」と私に訴えた。何年か前に緑内障で右目を失明していたが、今度は左目だった。医者曰く、高齢者は両眼でモノを見ているかどうかをあまり意識していなから、片目がみえなくなってもなかなか気が付かない。もう一方の目の調子がおかしくなって、初めて失明しているのがわかる。左目は加齢黄斑変性だった。失明は免れたが、視野の中心部分は欠落していた。この状態では、ここの生活が危ぶまれた。こんな変化を目の前に、君子さんに相談した。
「もし、今までのように誰の世話にもならず、ハッピーに生活したいのなら、介護付きの老人ホームに入所して、気兼ねなく必要なヘルプを受けるほうがいいよ」
この高齢者マンションには介護スタッフはいなかったし、将来とも健康に生活できる人たちの住処だった。
「家族に迷惑をかけたくない」
他人に気を使わせることを一番嫌がる叔母らしい返事だった。これまで独りで生活してきた証でもあった。
「だったら、少なくともお金で解決できるホームのほうが気を使わなくていいよ」
「そうするから、いいホームを探して」
君子さんの判断は即決だった。
続く…。

叔母・君子 その2

ロンドン地図

もう少し君子さんについて語ろうと思う。

君子さんが青島から無事に帰国し、その後どうしていたのか聞こうと思った。だが、「戦後すぐにM物産に復帰したの」と簡単に話してくれただけだった。叔母にもいろいろ事情があったのだろう。
君子さんは勤めながら書道やお茶を極めて行った。私が大分県佐伯から大阪に引っ越してきた昭和38年、私が小学生4年生の時には、扇町にあるレンガ建ての瀟洒な家に住んでいた。玄関には書道と裏千家の看板が飾られていた。当時、君子さんは47歳であったが、まだ物産を辞めていなかったので、趣味の領域だったのかもしれない。それでも習いにくる人が多かったのだろう、中には物産関係の偉いさんの奥様方がいたようで、その後、長いお付き合いになったようである。そんな中、私は一つ歳上の姉と一緒に君子さんの家にお茶を習いに行っていた。君子さんは着物を着て、茶室に設えた座敷で作法を教えてくれた。私はお茶とお菓子をいただく稽古ばかりをしていた。しかし、小学生を卒業してからは、私は君子さんの家に通わなくなり、叔母との関係は薄らいで行き、時折、君子さんが海外旅行に行っていたと、母から聞くだけだった。98歳になった君子さんに改めて聞くと、会社の休みにハワイに何度も行ったという。君子さんは仕事がバリバリできて、しょっちゅう海外旅行をするキャリアウーマンとして見られていたようだ。日本経済の高度成長期の真っ只中、日の出の勢いで業容を拡大していく商社でも珍しい存在だったのかもしれない。

昔話でも海外旅行が話題だと、昔を懐かしむような目をした。そういえば、ヨーロッパ旅行から帰ってきた君子さんからロンドンの地図をもらったことを鮮明に覚えている。君子さんが54歳で、私が17歳、高校の時の事である。君子さんのストーリーを書きながら、あの地図がないか書斎を探したが、見つからなかった。残念である。
さらに続く。

叔母・君子

君子さん

大正6年生まれ。御年98歳、独身。名前は君子。私の叔母だ。元気は元気であるが、耳が遠く、右目は見えず、左目は一部しか見えない。未だに背筋はピンと真っ直ぐで、毎朝、パナソニックの"ジョウバ"に乗って、足腰を鍛えている。歳が歳だし、子供もいないし、将来を考えて、何年か前に介護付きの老人ホームに入ってもらった。

昨日が誕生日で、1日遅れだったがホームを訪ねた。君子さんは車椅子に座って、私を迎えた。不幸なことに、昨晩、ベッドの横で転倒して、右目と右脇腹を打撲し、目の周りは殴られたように赤く腫れて、脇腹に湿布をしていた。こめかみも酷くぶつけたみたいで裂傷を負い、2、3針ほど縫っていた。
君子さんに聞いてみると、転倒して動けなくなって、長い時間かかって、ナースコールのボタンの所まで這っていき押したそうだ。大変だったに違いない。それにしても、いい血色しているし、お土産に持って行ったお好み焼きを1/3ほどペロリと食べたから、転倒のショックはどこかに行ってしまったのだろう。

しばらくすると、君子さんは私に向かって、いつものように昔の話をし始めた。少し認知症があるのか、あるいは、歳相応の物忘れか、間近にあった事をすぐに忘れるし、同じ事を幾度となく聞く。しかし、昔の話は鮮明にできる。同じ話を何回も聞いているが、大人しく相槌を打ちながら聞いてあげるのが君子さんには必要なのだ。
その話は、君子さんが生まれ育った大阪船場から始まる。小さい時は"いとさん"と呼ばれ、高麗橋の三越から番頭が丁稚を連れて反物を持ってきたそうな。小学校を卒業し、勉強が好きで、女学校に行きたかったらしいが、親が許してくれず、代わりに商業学校に行ったという。学校で会得した算盤と習字で、旧財閥のひとつであるM物産に事務員として入社。昔は女性がオフィスで働くのは珍しかったらしい。君子さんが18歳の時のことである。物産で中国との取引部門に配属され、帳簿付けや中国とのやり取りを担当していた。算盤技能がトップで、手紙を書かせたら、素晴らしい字を書いたものだから、支店長の目にとまったのか、24歳の時に支店長が家族共々中国・青島に赴任することになり、支店長の秘書として一緒に青島に派遣されることになった。1941年のことであるが、当時は女性が海外派遣されるのは珍しいことであった。君子さんは支店長の家に住み込み、娘みたいに大事に扱われたという。支店では秘書業務と帳簿の点検、電報業務だったとか。青島駐在は1945年、日本の敗戦の状況下で終了した。支店長から今なら安全に帰国できると諭され、支店長の家族とともに九州の港に着いたという。どこの港に着いたのは覚えていなかった。引っ越し荷物は物産の大阪倉庫に預かってもらった。というのも、船場の両親の家は大阪大空襲で焼失してしまっていたから、引っ越し荷物どころか、身一つ、どこで生活するかわからなかったらしい。

戦後、M物産に戻り55歳の定年まで勤め上げた。この間、独身を通した君子さん曰く、全財産を失った両親は君子さんの給料を当てにしていて、結婚させようとはしなかったと。なんという境遇であろうか。次回に続く……………

松尾さんの福豆

松尾大社2

日曜日の朝、家の周りは結構雪が積もっていた。月初にいつも松尾大社に行く女房は雪道が嫌いだった。まあ、たまにはいいかと思いながら、女房を連れて行くことにした。桂坂から坂道を降りて、国道9号線に出ると、雪はちらついてはいたが、植え込みや車の屋根に少し積もっている程度だった。桂坂は標高150から180メートルほどの丘なので、下界よりは2度ほど気温が低くなる。下は霙で、上は雪って事はよくある。
松尾大社に着くと、ちらほら参拝者がいた。拝殿や本殿の屋根は雪のベールで包まれ、背後の山の木々は鮮明に縁取られていた。時折、フワフワとした雪が青みがかった空から降ってきた。本殿にお参りし、本殿の右奥と左奥にある7つの末社にお参りした。雪が静かに舞う神社は荘厳な雰囲気を醸し出していた。
そんな境内を一巡した後、社務所に立ち寄り福豆を買い求めた。2月3日の節分祭のお豆である。

去年は何かしら鬼が多かったような気がするが、今年こそはたくさん内に福が来てほしいものだ。そのためにも年の数だけ福豆を食べようとは思うが、松尾大社の福豆は61個もないので、簡略化して6+1+1で8個を食べて、「鬼はそと福はうち」するかな。

松尾大社1
プロフィール

Hirowa

Author:Hirowa
朝電メモへようこそ!

最新記事
最新コメント
最新トラックバック
月別アーカイブ
カテゴリ
検索フォーム
RSSリンクの表示
リンク
ブロとも申請フォーム

この人とブロともになる

QRコード
QR
上記広告は1ヶ月以上更新のないブログに表示されています。新しい記事を書くことで広告を消せます。